これは前回の記事の続き的な内容になります。
前回、私は 人も動物も幸せになれる世の中になれたら良いな。という動機で獣医師を志したと書きましたが、やはり動物の命が軽視されている以上、その蔑ろにされている命を救う活動もしたいと、大学時代は動物の保護活動をしていました。
学生時代も勉強すること、提出しなければいけない課題、築かなければいけない友人関係等たくさんありましたが、その活動の代表をしていた事もあり、責任を感じて熱心になりすぎ、最終的に体調と心を崩す結果となりました。
動物の保護活動では、生まれて間もない子猫もいますし、病気もちの子・心を閉ざした動物など、24時間体制で気を配らなければいけない子も多くいます。
冷静になって考えると、まだ親に支えられているほどの未熟な学生が責任をもってやるには精神にも体力にもなかなか負担の大きい活動だったと思います。
今では本や映画にもなっているこの学生の動物愛護活動のサークルですが、表面上の美しい部分だけを見て、『すごいことやってる学生がいたんだな!』『この活動を応援してあげよう!』と捉えるのではなく、
まだ社会的にも未熟な学生が奮闘しなければならない悲しい実情であったということ。
応援しよう!よりは、応援しなくても良い世の中に、一歩先をゆく大人たちがなんとかしなければならなかったんだな。と受け止めてほしいかなと思います。
(暗い部分を書くことは、現在頑張っている学生だったり愛護活動をしている人の気持ちを、嫌な気分にさせてしまうかもしれないのですが、決して傷つけようとして書いているものではないことをご理解の上お読みいただければと思います。)
私の学生の頃は、やはり人間として未熟なだけあって、片手間に愛護活動に参加するメンバーも確かにいました。動物の命の責任よりも、飲み会を優先したり、やるべきと任されていた活動の仕事も放置する学生も確かにいました。
結果として、決して本や映画にできるようなほど素晴らしい活動ではなかった結果になった事も多くありました。
また、犬・猫を拾ったという方から、“代わりに保護してくれないか”という依頼も日常当然のようにありました。責任を持って引き取るには限りがあるため、それをオーバーしてしまう場合はお断りすることもあったのですが、『じゃあどうすればいいのよ!!』と罵倒されてしまうことや、『あななたち保護してくれる団体なんでしょ?なんでしてくれないの?』と冷たい言い方をされることもありました。
自分にできないことは他人の力を求めることももちろん大事ですが、会社でも自分のキャパシティをオーバーする仕事があった場合、誰かに助けを求めるにしても、『なんで引き受けてくれないんだよ!』と八つ当たりしたり、手伝ってくれたにしても『じゃあ後よろしく』と、その後のことは知りませんと放置することはしないはずです。
引き受けてくれた人がどんな気持ちで受けてくれたかを考えたり、自分ももっとできることはなかったかを考えるなど、少なくてもしてくれたことに対して当然・その後のことは知らん。と思ったりはしないはずです。(はず・・・)
愛護活動でも同じことが言えると思います。
例えばペット不可の物件に暮らしていて、自分一人ではどうしても引き取ることができない犬や猫を保護した場合。誰かを頼ることになると思いますが、仮に引き取ってくれたとしても、『あ〜よかった。これで一安心。』と終わらせるのではなく、
引き取ってくれた人はどんな思いをしながらこれからその子と向き合っていくのか、この先どれだけの時間的・経済的・身体的負担を覚悟して引き取ってくれたのか、そこまでを考えることが “してくれた事” に対する本当の感謝であると思います。
人任せにしてそれで終わり。なのであれば、飼えなくなって捨ててしまった無責任な人と変わらなくなってしまうのではないでしょうか。命は大事でも、それを守るために誰かに責任を押し付けて良い理由にはならないと思います。
人の意見・考え・価値観はそれぞれ。自分は絶対的にこうだと思っていることも、実は他人にとってはそうではないかもしれません。 前提として、それが他の人に影響を与えるものでなければその信念は持ち続けても良いと思います。
学生時代にあった一件のメールにこのようなものがありました。
『里親という表現を使うのはやめてほしい。親のいない子供の新しい家族に使う言葉を動物に使って欲しくない。子供たちが傷つきます。』というものです。
今まで私たちが普通に何気なく使っていた里親という言葉が、知らない間に誰かを傷つけていたのだと知った時、目から鱗でしたが、その表現を控えることが自分たちの損害に直結するものではないと思いましたので、私たちはそれ以来里親という言葉を可能な限り使わないように心がけました。
一方、例として「タバコを吸ってたって健康でいられる!」「タバコ吸っても90過ぎまで生きた人だってたくさんいる!」と言って、嫌がる人の前でタバコを吸うとしたらどうでしょうか?その人にとってタバコに害はないという価値観ですが、周りの人がそう思っていない中、その意見を相手に受け入れてもらうことはできるでしょうか?
コロナウイルスのマスク着用の件についても、マスクをすると返って害になる。と頑としてマスクを拒否する人もいると思います。 その人の価値観ではマスク着用をしないということが正義ですが、その周りの人の価値観を蔑ろにすることにはならないでしょうか?
自分の意見を主張して良いのは、あくまで他人の価値観を傷つけないことが大前提だと思います。(これも私個人の価値観なのですが)
タバコの件に関しても、マスクの件に関しても、始めに戻って動物を引き取ってもらう件に関しても。
世の中には動物が嫌いだったり苦手な人もいます。だからと言って、そのような人にまで、動物を愛でよ。ということを強要してはいけないと思います。嫌いな人の意見も尊重し、動物の命も守れる中間点を探していくことが両者の幸せを確保することに繋がると思います。そのためには人の気持ちを想像するという力が大事なんだと心に思っています。
とーーっても長い文章になってしまいましたが、どうか相手の立場になって、優しく思いやれる人がいっぱいいる未来が待っていると良いなと思います。