11月に入ってからも色々なことがありましたが、最近の出来事から。
まず当院もスポンサーとなっているベガルタ仙台のお話を。
すでにニュースや新聞でも取り上げられているため、周知の方も多いかと思いますが、先日11/20(土)に行われた湘南との試合で、ベガルタ仙台はJ2降格という結果になってしまいました。
コロナが落ち着いてきてからだんだんとスタジアムにも足を運びやすくなり、これからまたサポーターの方と一緒に喜びを共有できる機会も増えてくるかもしれない・まだまだベガルタのチャント(←:一定のリズムと節を持った、祈りを捧げる様式を意味する古フランス語に由来する言葉)もよく知らないし、声が出せるようになったら覚えていきたいなと思っていたところだったのですが、この2年間選手たちのとびきりの笑顔が見れないまま、残り2試合を残して辛い結果となってしまいました。
今年のスタジアムでの思い出はわずかですが、その中であった嬉しかった出来事を初めにここに紹介しようと思います。(もっと早くに書こうと思っていたのですが書きそびれました。)
それは10月下旬の広島戦での出来事で、この日予想はしていたものの、スタジアムの寒さが一層厳しくなってきて、いうことを聞かずに薄着で同伴した子供達が案の定寒がり、試合開始前から私のアウターを差し出し自分が超薄着で感染する羽目になりかけたことがありました。
そんな状況を見ていた周りのサポーターさんたちが上からも下からも、『このご時世だから(コロナもあるから)貸し借り難しいかもしれないけど、良かったら使って!』と温かい言葉と共に使い捨てホッカイロをくださったり、ブランケットを差し出してくださったり、優しい気持ちを分けてくださったことがありました。
気温は寒い日でしたが、もうその優しいサポーターさんたちからの言葉や心に私の胸はジーンと熱くなりました。
『あぁ、ベガルタ仙台は、こんな心優しい人たちにたくさん応援されているんだな。その思いが力になるといいな。』と、残りの試合で奇跡が起こることを私も祈っていました。
この1年間、決してサポーターの方の思いが届かなかったわけでも、選手たちに勝とうという思いが無かったわけでも決してないですし、むしろ震災から10年という節目の年に、この東北に希望の光を・・とより一層の想いをもって望んていたことと思います。
しかし、前節の湘南戦でJ2に降格という、絶対に避けたいと思っていた結果になってしまい、試合後にお辞儀をしている最中、一部の人たちから選手たちは酷いブーイングを浴びてしまっていました。
どう頑張っても思うように行かない、望んだ結果にならない。という経験は、真摯に向き合い目を背けることなく1つのことに努力を捧げたことのある人なら、1度は人生の中で身に覚えがある経験なのではないでしょうか。
きっと選手たち1人1人、最後には奇跡を起こしてサポーターの笑顔で埋め尽くされるスタジアムを胸に描いてプレーしていたのではないでしょうか。
もちろん、このやるせない結果に、怒りの矛先がなく、誰かに当たりたいという強い感情をもつ思いもわからなくはありません。
しかし、誰よりも毎日毎日勝利することを目標に努力してきたベガルタ仙台のチームに酷い言葉をぶつけたり、悲しみに追い討ちをかけるような行動をすることは、
心尽くしてきた人を傷つけることは、とても悲しく、どうしても見ていられない光景でした。
涙を流して顔を上げられずにいた選手もいました。 涙を流さなくても、心の中で涙を流していた選手も多かったことでしょう。
人の心は計り知れません。 気丈に振る舞っていても心の中は涙で溢れていたかもしれません。
計り知れないからこそ、相手の心を想像して思いやりをもって接しなければいけないのではないでしょうか。
これからも頑張ってほしいと、支えたい、と思うのならば尚更そうです。
これはベガルタ仙台の一件に限らず、心をもつ命と接するときは全てそうだと思います。
コロナ禍で動物を飼う人が増えたけれど、放棄する人も増えた。ということも然り、自分に都合が悪くなると相手がどうなろうが構わないという行動をすることはとても悲しいことです。
もしもそのものを愛しているのなら、どんな姿になっても、どんな結末でも寄り添い抱きしめてあげなければならないと思うのです。
小さくて容姿が愛らしい頃や、病院にかかることなく元気だった頃は、自分に都合が良いことばかりで飼っていても良かったけれど、年をとって見栄えに劣るところが出たり、病気になったために治療費や手間がかかるようになると都合が悪いからいらない。というのは、『もしも自分がそんなことをされたら。』を想像すると、とてもできるものではありません。
院長ともこの試合の後その出来事について話をしたのですが、『我々の世界でも(獣医の世界でも)どんなに死力を尽くして治療をしても亡くなってしまうことがある。亡くなってしまったら過程がどうであれ、批難されることもある。それは仕方のないことだけど、それが認められる世の中になるといいよね。』と言っていました。
誤解のないように追記しますが、これは『一生懸命やったんだから、死んでしまっても許してくれる世の中になってほしい』『一生懸命やったんだから、負けても許してあげて』という発言ではなく、自分の思い通りにならないことがあっても、関わる人たちがどんな思いでしてくれたか想像力をもって思いやりを持てる人が増えれば、悲しみも力にしてお互いより良い未来を作っていけるよね。という意味だと思います。(←文章力が無くて結局思うように訳せませんが)
サポーター/サポートという言葉が、支えるという意味ならば、潰されてしまわないように寄り添い、倒れないよう力になるのが“あるべき姿”ではないかと個人的には思うのです。
どうか力を失ってしまわないよう、もしも傷ついている人や動物がいるなら一層のやさしい気持ちで接してあげたい。と、そういう人たちがたくさんいる世の中になってほしいと願ってやみません。
残り2試合も、愛溢れる応援の中でプレーできることを祈っています。