花の命も長くないだろう。とおよそ1年以上?言い続け、
終わりまでの間、その日に向けてしっかり心の準備をしてはきましたが、それでも結局いなくなったその瞬間から大きな寂しさを抱えることになってしまいました。
ペットロス休暇をとった1日は、気がつくと『もう何もしたくない・・明日も休みたい・・花に会いたい・・寂しい・・辛い。。』とひたすらネガティブ発言をぼやいて過ごしていました。
後悔がないように、好きなものも食べさせて、無理を強いずに好きなように過ごさせてあげ、「あなた本当に元野良ですか?!」というくらいふかふかベットに寝かせてあげたりと、“やれることはやった”と自分に胸を張って言えるように準備してきたつもりですが、
自分の記憶の中だけで思い出を振り返ってしまうと、『実はもっとやり残した事があったんじゃないか』『不在の時間が長すぎたから、本当は淋しい思いをさせてしまっていたのではないか』『人間の都合に振り回してしまって、苦しいこともあったんじゃないか』と、
“やれることをやり切った”というのは実はとんだ間違いで、「満足していたのは自分だけ。」という現実を突きつけられそうな気配に、心を隠してしまいたいと思う瞬間も多々ありました。
我が家のパパ(院長)は、『せっかく獣医になったんだから、もっと色々やらせて(治療)欲しかったな・・・』と寂しげに言っていました。
手術や治療で治る病気なら、その力量で寿命を変えられたかもしれないのに、抗えないもので命尽きるなんて、獣医師としては無念の気持ちがあったようです。
誰も合わせてくれない自分の中の答えだけでは、後悔がチラついてしまって途方に暮れてしまいます。
何度も何度も、「“そうじゃない”なんて、自分でよくわかっているでしょう?」と自分に言い聞かせても、深掘りした先にある心の奥はいつもどこか黒ずんでいて、自分がそのまま丸ごと深い部分に落とされてしまいそうになってしまいます。
そんな中、古い携帯やHDDを引っ張り出し、昔の花から亡くなるまでの花の姿を見返すと、
『あぁ、ちゃんと私は花のことを愛せていたし、あの子自身も自分の人生ちゃんと生きててくれてたな。』と確かな自信を取り戻せるし
「安心しなよ。後悔しなくて大丈夫。」と、写真が背中をさすってくれるのです。
(これが私が写真を撮り続ける理由の1つです。)
写真の中の花は、どこか人間を見透かした顔をしていて、自由で、おどけていて、したたかで、愛情深い。
楽しかった。面白かった。幸せだった。愛おしかった。
・・・できることならまた会いたいよ。
きっと私がまた花に会いたいと思う日々の記憶は、花にとっても同じもの。
隣同士の席でみたフロントガラス越しの景色にそれほどの相違がないように、
きっと私の知らない悲しみなんて、そう無いのだと思います。
それは花が私によって生かされている存在ではなく、私と同じ方向を向いて、たまたま一緒の時間共に生きていただけの存在だから。
例えるなら、花が、私が運転するバスに乗っていた乗客ではなく、
私も花も同じバスに揺られていただけの2人であり、
それが先に降車したのが花だった。というだけな気がします。
旅の道中、一緒におやつを食べたりたわいもない話をしたり、時には言い争ったり、その時間はとても楽しくかけがえがないものだったけれど、先に降りると決めた花にはもう、
「生まれ変わって戻ってきてよ。。」という期待もかけずに、ちゃんとサヨナラを言わなければなりませんよね。
先に降りた花は、まだ乗車を続ける私たちの旅が、『自分が一緒にいたと同じように変わらず続いていく』と思い描いているはず。そのイメージ通りに生きていくことが私たちのしなければならないことなのかなと思います。
別にそれは花の願いではないし、期待でもないけれど、なんとなくそう思ってくれていたであろう花のイメージを壊さないように、
だから私は、残された息子の至花のことも、取り巻いていた環境も、一層大切に守っていこうと思うのです。
(一番右がシハルです。)
さぁ、これで長い長い、花との思い出話もこれでようやくおしまい。
次回からは、そんな猫と暮らす楽しさを知ってしまった我が家に、ここぞとばかりに次々やってきたNew Faceたちのお披露目をしたいと思っています。お楽しみに。
〜オマケ〜
※私が好きな写真の1つ。本邦初公開(笑)
さすがに院長に許可をとっていないので薄くモザイクかけました^^;
風邪を引いてゲームしている日下の隣でたたずむ花さん。大学の時の写真です。こんなふうに院長のそばに寄り添うのが好きな可愛い子でした。
花、これからもずっと大好きだよ!!!